この「事務局だより」では、同窓生のみなさまにお伝えしたい出来事や、心にとまった折々の事柄を発信していきたいと考えております。

干し柿には受難の冬

干し柿には受難の冬

 明けましておめでとうございます。会員のみなさまにおかれましては、思いも新たに新年をお迎えのことと思います。今年は暖冬のおかげで、山形には珍しく雪のない穏やかな年の始めとなりました。

干し柿

 しかし、山形の冬の風物詩、干し柿にとっては、受難の冬のようです。十二月、軒先に吊るしたわが家の紅柿も、片や黒ずみ、片や蜜がしたたり、力尽き、あえなく落下していきました。曲がった腰を伸ばしながら難儀して吊した柿の無残な姿に、父は「こんな柿は今まで見たことがない」と肩を落としました。
 それでも、かろうじて小枝にしがみついて持ちこたえた柿を、帰省する孫たちへの正月土産にと束ねながら、父が言うのです。
 「木からもぎ取られ、皮を剥がれた渋柿は、日を浴び、寒風に曝されてこそ身が引きしまり、糖分がにじみ出て、やがて白粉に結晶するんだ」と。
 なるほど――、組織という木から離れ、肩書きという皮を失い、生身の一個の人間となって、世の中の厳しさに曝されてこそ、渋味から甘味へと、人間味がにじみ出るということか。干し柿も毅然と年を重ねてるなあ。
 と、身につまされてしみじみ干し柿を見れば、――枝もたわわになっていた頃は瑞々しく美しいものの、みな同じような顔をしていた渋柿が、今やそれぞれに縮こまり、それぞれに皺を刻み、どれ一つとして同じものがない。一つ一つが、なんとも堂々と個性的な顔をした干し柿になっているではありませんか。
 皺と言えば――、松木先生のあの笑い皺。噛みつくように檄を飛ばし続ける授業の、ほんの一瞬、ニンマリとされるあの笑顔。皺の中で、小さい目がいたずらっぽく笑っていた。つられて私たちも笑った。
 高校一年生の正月、私は先生に年賀状を出した。しばらくして返事がきた。

 「拝啓 酷寒の候と申し上げなければなりませんが、暖冬異変で三寒四温が繰り返されています。勇健で日夜御精励のこと慶び申し上げます。
  High School Life第一学年の掉尾が刻々近ずいています。昨年の恰度今頃のことを回想して、愈々御努力おさおさ怠りないことでしょう。英、数、国すべて第一学年が基礎、それが軽視されるなら後日幾十倍の苦しみとなることは決定的です。先憂後楽です。どうか矻々として御精進下さいますよう願い上げます。年頭の賀詞拝受しながら延び延びと相成り申訳ありません。敬白」
 言葉が弾丸のように炸裂する授業とは全く異なる、静かで丁重な言葉の世界が広がっていました。和漢の言葉を駆使した、明治の人らしい骨太の文章。不肖の教え子を教え諭す、熱意あふれる言葉。しかし不思議なことに、一度も「勉強」などという陳腐な言葉は出てきません。「御精励」「御努力」「御精進」と敬意をもって繰り返される、自己鍛錬の姿勢こそが、先生のおっしゃりたかったことなのでしょう。自分を磨くための「刻苦勉励」をこそ、先生はきっと自分にも生徒にも求めていらしたのではないでしょうか。
 干し柿と先生の年賀状を重ね合わせてそんなことを思い始めたら、暖冬なのになんだか身の引きしまってしまった正月でした。

賀状

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