昭和25年(1950)3月、 戦後の目まぐるしい学制改革を経て新たなスタートを切った山形東高の、第1回卒業式が行われました。時は流れ、この3月、令和初の卒業式が行われました。記念すべき第70回卒業生は235人、「令和」という新たな時代に、自ら光を放ち、明るく照らす燈火(ともしび)とならんとの決意を込め、「令明会(れいめいかい)」がここに誕生しました。
しかし、その船出は突如、新型コロナウイルスの第一波が立ちはだかるという、未曽有のアクシデントに見舞われました。感染拡大防止のため、3月2日から全国すべての小中高校と特別支援学校が臨時休校に入り、翌3日の卒業式は急遽、卒業生と教職員の他には、保護者代表1名、在校生代表1名だけが出席する、簡素な式に縮小されました。
校歌斉唱―前後左右に距離をとって起立した卒業生。マスクで歌う最初で最後の校歌です。
佐藤俊一校長の式辞は、「志高く三兎(「学習活動」「部活動などの課外活動」「社会活動」)を追う山東生であれ」と激励した入学時に遡り、「探究型学習」への改革をはかる新時代山東のパイオニア学年としての期待に応えた、三年間の活躍を称えました。
これからの社会はマニュアルも役に立たず解もない多くの局面に遭遇し、その対応が問われることになるだろう。大切なのは、自ら課題を見つけ解決する態度、主体的、対話的で深く学ぼうとする姿勢、つまり本校で培った「探究型学習」であり、たくましい学びの主体であり続け、その学びを生かして、地域の、この国の、そして世界の未来の創り手となり、社会を支える人間になってほしい。
凧は向かい風の時こそ最も高く上がるように、障害や困難にぶつかっても、勇気を持って前に進んでほしい。イギリスの宰相チャーチルは言う。
「金を失うことは小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。しかし勇気を失うことはすべてを失うことである。」と。
さらに、豊かな社会生活を営むには豊かな対人コミュニケーションが不可欠であり、モニター画面の記号に頼ることなく、生身の言葉と態度で人同士のコミュニケーションがとれる人間でなければならない。人は「ありがとう」の数だけ賢くなり、「ごめんなさい」の数だけ優しくなり、「さようなら」の数だけ愛を知るのですと語りかけ、式辞を結ばれた。
三月末で勇退される校長の、山東生への最後の授業、教員生活の掉尾を飾る熱い言葉でした。
その思いに応えて、卒業生代表・長澤パティ明寿君の答辞が講堂に力強く響きます。学校生活を多岐にわたり親身に指導して下さった先生方、自立に向けて一番身近な所で支えてくれた保護者、社会に貢献する姿に刺激を受けた同窓の諸先輩、そして共に高め合い時に衝突しながら将来を語り合った仲間たち。これからも感謝とつながりを大切に、若者がそれぞれの花を咲かせ活躍できる社会、令和の新時代を、主体となり自らの手で切り開いていくことを、令和元年度の卒業生として深く胸に刻みたい。
私たちは卒業を機に様々な場所に飛び立っていくが、心にはいつも世界に誇りうる魅力あふれる故郷山形を留めおきたい。山東の大先輩にあたり、国際連盟常設国際裁判所所長を努められた安達峰一郎博士の残された言葉
「山河我を生むの鴻恩に報いん」
に込められた、自らの故郷への深い感謝と愛。山形東高校、山形県で過ごした日々は間違いなく私たちのアイデンティティの一つ。「心に山形を、視野に世界を」をモットーにこれからの人生を歩んでいきたいと、決意を述べました。
門出の時が迫り、『威風堂々』の荘厳な調べが会場を包みます。この曲は、卒業式で演奏できなくなった吹奏楽部員が休日を返上して集まり、何度も練習を重ねて録音してくれた、先輩たちへの心を込めた感謝とエール。先生方の温かい拍手に送られながら、晴れやかに退場する卒業生。駐車場には、それを遠くから見守ろうと三々五々集まった保護者の姿。
コロナ禍の第70回卒業式―卒業生と彼らにつながる人々の思いが、響き合い、互いの存在がいっそう近く大きく刻みこまれた卒業式となりました。
(*式辞・答辞の全文は、山形東高ホームページでご覧いただけます。)