甲子園大会が今年で101回目を迎えるという。昭和11年(1936)の第22回大会。山形中学野球部は東北大会を制し、ついに本県初の甲子園大会出場を果たした。県庁(現文翔館)前の広場で行われた壮行式は群集と提灯で溢れ、選手達は山中喇叭(らつぱ)鼓隊を先頭に山形駅まで行進し、沿道の歓呼の声に送られて、一路、夜行列車で甲子園をめざした。
それからの四年間、山形中学野球部は東北の覇者の名をとどろかせ、甲子園連続出場の黄金時代を築いた。主将の三上七郎氏(山中53回)は、当時をこう振り返る。
「石の多いグランドだった。雨あがりは靴あとで波模様の立つグランドだった。日曜 も祭日もなく、さも当然のように毎日グランドに集ってきた。百本ノックではヘドを吐き、スライデングではお尻をえぐり、手足にマメをつくってはボールを追った。そして合宿の便所には血の小便が一杯だった。」
昭和13年(1938)三回目の甲子園。「上位十強に入る」と噂された山形中学は、初戦で甲陽中学に惜敗。冬には三上自身も肋膜炎で倒れたが、「野球を続ければ死ぬ」という医師の言葉を押して主将の重責を担い続けた。
そうして勝ち取った四回目の甲子園出場。昭和14年(1939)の開会式、三上の力強い選手宣誓が球場いっぱいに響き渡った。
「われは武士道の精神に則り、正々堂々と試合し、誓って中等学校野球の成果を発揮 せんことを期す。」
二年後の昭和16年(1941)7月。各地で甲子園予選たけなわの最中、突如、本大会の中止が決まった。12月、大平洋戦争勃発。戦局は日増しに逼迫し、昭和19年(1944)、中学校でも通年の勤労動員が始まった。4月、三年生が神町飛行場の建設作業に従事。7月、四、五年生に軍需工場への動員令が下った。山形を遠く離れた群馬県・中島飛行機工場での、戦闘機「零零戦」「月光」「銀河」の組立作業である。翌年3月、動員先の工場で、四年生も五年生と共に繰上げ卒業となった。
学校では、下級生達が来る日も来る日も校地を耕していた。部活動に青春を謳歌したグランドも籠球コートも庭球コートもことごとく掘り起こされ、食料増産のために大豆、サツマイモ、ジャガイモ、小麦が緑なす畑と化した。
昭和20年(1945)4月、政府は労働力確保のため中学校以上に「一年間の授業停止」を指令。日本国中の青少年がそうであったように、山中生もまた仲間と寝食を共にし昼夜をわかたず動員先で懸命に働いた。戦争は、生徒達から学ぶ喜びさえも奪い去っていった。
8月、終戦――。農園と化したグランドにも、再び球音が響く日がやってきた。戦後の疲弊した生活の中にあって、五回目の甲子園出場を夢見て野球部の復興に取り組んだ日々を、当時の部員・鈴木富美男氏(山中60回・昭和22年卒)は、「先輩、学校当局と、我々とが渾然一体、目的に邁進し、見事に開花を見た、奇跡的な季節」と懐かしむ。
野球部再建の思い出
鈴木富美男(山中60回・昭和22年卒)
戦後第一回目の甲子園大会は、球場が米軍に接収されていたため、西宮球場で開催された。幸い、我々はこれに出場し、山中五回目の出場記録を刻むことができた。
思えば、戦後逸早く部を再建し、西宮球場に駒を進めるまでの一時期は、先輩、学校当局と、我々とが渾然一体、目的に邁進し、見事に開花を見た、奇跡的な季節である。
国破れて山河ありー 敗戦直後のグランドには、バックネットの影さえなく、ダイヤモンドも荒廃していたが、自然の景観だけはその儘残っていた。一塁側スタンドの切れ目には、ピサの斜塔のように傾いた、白楊の大樹が亭々と聳え、三塁側、雨天体操場の石垣の下と、センター後方には、夫々立派な柳の木がどっしりと根をおろし、豊かに垂れる枝を、風の吹くが儘に 委ねていた。我々は、これらの老木から、甲子園連続四回出場の歴史を聞き、伝統の囁きを耳にしながら、同志相集まって野球部復興を企図したのである。
当初我々は、練習着もなく全員に行きわたるグローブもなく、ズボンをまくり上げ、地下足袋を履いているのはよい方で、幾人かは素足という出立ちで、しかも軟球を追い廻していた。鈴木清助(山中26回・交友)、武田健(山中37回)両氏をはじめとする先輩団は、先ず物資的援助のために、奔走を余儀なくさせられた。バックネットの復元、練習用の地下足袋、試合用のユニホームと豚皮のスパイク等々、いずれも先輩の尽力に依るものばかりである。幸い、学校の倉庫に、戦前の用具箱が保管されてあった。グローブやミットに続いて、数十個の硬球を発見した時、我々は期せずして歓声をあげた。この貴重なボールを、何度も縫い直しながら大切に使ったのである。
他校から見て垂涎の的はコーチ陣であった。全盛時代の先輩達が次々に復員され、期せずしてグランドに駆けつけ、戦後の生活多端の折にも拘らず、献身的に各分野のコーチに当られた。矢吹、加瀬、三上、鎌上その他、各先輩には今も感謝の念を禁じえないのである。
やがて時到り、俊英三上七郎先輩に率いられた我々山中チームは、怒涛のように予選を勝ち進んだ。村山地区予選、県大会では決勝戦を除き悉くコールドゲームで勝ち、東北大会までの三つの決勝戦は、いずれも山形工業と対戦、すべてに勝利を収めた。この戦後初の快挙を木村校長はじめ野球部長の角田先生、松木先生他、多くの先生方が、我が事のように喜んで下さった。
大内市長(大内投手の父君)の肝入りで、祝勝歓送会も市役所で開催され、晴れて西宮へ出発する日には、やはり市長と諸先輩の計らいで、米二俵、味噌、醤油各一樽の準備も整った。当時の遠征には、このように食糧の準備が欠かせなかったのである。現地でも、当地の先輩諸氏から神戸牛の肉を贈られ、宿舎で久々の牛鍋に舌鼓を打った。
顔面を紅潮させて臨んだ、感激の入場式が終わり、試合の日がやってきた。相手は函館中学。必勝の誓いも空しく、勝運我に利せず、13-5で完敗した。中村投手の完投、健斗にも拘らず、守備と攻撃面で一歩及ばなかった。劈頭、四番打者大内君が、左中間に放った三塁打の印象は、今も鮮やかである。彼と私の弟は、予選を通じて打率四割以上をマークし、勝利の原動力となったが、この日弟の打棒は振わなかった。何度も首をかしげていた様子が思い出される。終盤近く、新人田島君が、先輩に代わって出場し、駿足よく大飛球を捉え、名手の萌芽をあらわした。この他、渡辺、剣持、佐藤、矢田部、杉山、武田、山口らの諸君も、それぞれの役割を果たしたが、詳述の遑がないのが残念である。
函館中学は、次の対浪商戦に臨むための糧食の準備をしていなかった。我々が幾何かの米を譲ったところ、敵に塩を送った故事に譬えられ、美談として新聞に掲載された。
戦時下に中学生活の大部分を送った我々の思い出には、仄暗いものが多い。しかし、戦後、部再建に費した明るい労苦と、本大会に至るまでの野球の経験は、それ迄の暗さを充分に払拭してくれた。かくも見事な思い出で掉尾を飾り得たことを、伝統ある母校と先輩の方々に深く感謝する次第である。
(創立九十周年記念『校史編纂資料』・1974年発行)
戦争で失われた青春の時間、喜び、夢――それらを自らの手で取り戻すかのように、生徒達は夢中で白球を追った。予科練志願兵として終戦を迎え、復学したばかりの主将・渡部盛男氏(山中60回・昭和22年卒)は、「私には野球しかなかった。朝から夜の8時過ぎまで野球漬けの日々だった。」と当時を語る。野球にかける生徒達の姿に、大人達もまた、生きる希望を見出していたのだと思う。食うや食わずの暮らしの中、グランドに駆けつけては生徒達を励まし、用具の調達に東奔西走し、食料を工面して全国大会へと送り出す。甲子園出場めざし皆で力を合わせてがむしゃらになれた「明るい労苦」の時間は、大人達にとっても幸せな時間だったに違いない。
関西在住の先輩もしかり。「神戸牛の肉を贈られ、宿舎で久々の牛鍋に舌鼓を打った」生徒達の傍らで、先輩達の心もまた温かく満たされていたことだろう。
試合こそ負けはしたが、山形中学は函館中学(現函館中部高)に米を贈り、後々まで語り継がれる逸話を残した。その陰には、こうした物心両面にわたる先輩達の熱い支援があったればこそ、「衣食足りて礼節を知る」行動をとることができたのだろう。
――あれから、73年。函館中部高出身で山形大学野球部監督の沼田尚さんのご尽力で、この夏、函館で両校の交流戦が行われることになった。
8月6日(火) 函館市・千代台公園野球場(オーシャンスタジアム)は快晴。北の大地を吹き渡る風が心地よい。ライト方向に遠く函館山が見える。当時に思いを馳せ、開会式では山東からは米俵を、函館中部からはじゃが芋を贈り合って記念撮影。佐藤俊一・山東校長による始球式で、午前10時、試合開始。体格もユニフォームも実力も共によく似た両校が、公式戦さながらの真剣勝負を展開。この夏、甲子園予選の3回戦まで進み波に乗る山東が、先制は許すも、単発を重ねて7対4で逆転勝利。第二試合も9対8で勝利し、73年ぶりの雪辱を飾らせていただいた。
最後に。気にかかるのは、函館中学に贈った「幾何かの米」がどれ程であったかである。函館中学の右翼手・三国比左男氏は、こう記憶している。
「まさか勝てるとは思っていなかったものでね、米は一週間分しか持って行きませんでした。ところが、勝っちゃった。困っていたら、私たちに負けた山形中が『オレたちの分まで頑張ってくれ』って、米をくれたんです。洗面器に山盛りあったかなあ。」
(『週刊甲子園の夏』vol.15・2008年発行)
聞けば、このたびの米俵は函館側で準備して下さったものだとか。洗面器を米俵に盛り替えて、遠来の対戦相手に花を持たせて下さったご好意に、あらためて感謝!!