御楯(みたて)の桜の話

 昭和16(1941)年4月、当時の山形中学3年生が校舎西側の通用門近くに記念植樹した2本のソメイヨシノは、卒業会名の「御楯会」にちなんで「御楯の桜」と呼ばれています。
 冬――。裂けてえぐれた木肌を寒風にさらし、雪に埋もれてよろけ立つ老木の姿に、見る者はみな胸をくもらせます。
 しかし、そんな杞憂をさらりと交わし、「御楯の桜」は今年も花を咲かせました。春風に身をまかせ、薄紅の花衣を優雅にひらひらとそよがせています。
 その強靭な生命力には驚かされるばかりなのですが、20年前の『同窓会報』(第49号・平成9年発行)には、「桜の木を救え!~植樹して55年~」と題する記事が載っています。生気を失いつつあった状況を案じた御楯会の有志が、樹木医の指導のもとに剪定、空洞化した幹の洗浄、防腐剤の塗布を行った様子が紹介してありました。その後も肥料、防除、雪吊りをこまめに施したおかげで、「御楯の桜」は見事に復活し、再び枝もたわわに花を咲かせ始めたようです。

 満開の桜を見上げながら、御楯会の桜守たちに思いを馳せる時、その一方で脳裏に浮かんでくるのは、平和な春がめぐりくることを知らずに散っていった「御楯の桜の話」です。
 御楯会の卒業は、太平洋戦争末期の昭和19年。会名は、『万葉集』の防人歌「今日よりは 顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は」により、「わが身を顧みずお国のために殉ずる心意気」を込めたと言われています。
 国家あげて戦争に突入していった昭和16年。桜を植えた少年たちの心には、どんな思いが去来していたのでしょうか。――その当時の忘れがたい光景を記した、渡部忠雄氏(山中57回、御楯会)の文章が、『山形東高等学校百年史』に残されています。

 「陸軍少年航空練習生に応募する者はいないか」と担任が言った。一瞬、クラスはしーんとなった。そして大部分の者はそっとうつむいた。担任と視線が合ったらはなはだまずいことになる。陸軍航空隊=戦闘機乗=空中戦=高い戦死率。消耗品!陸士(*陸軍士官学校)や海兵(*海軍兵学校)のいわばエリートコースとはまるでちがうのだ。これまでも、あの中央廊下に募集ポスターが貼られることはあったが、天下の山中から陸軍少年航空練習生に応募したことはなかったし、教師が直接生徒のよびかけるようなことも考えられないことだった。軍からの割り当てがついに山中にもやってきたのだ。
 ……重い沈黙の後、担任は再び口を開いた。
 「志願者はいないか。このクラスからただ一人でいいのだ。」
 そして再び重苦しい沈黙。時間が鉛のようにびっしりつまり、停止して動かない。担任が教壇を降り、ゆっくり列の間を歩んだ。ぼくの位置から二列ばかり廊下よりだ。「助かった!」とぼくは思い、泥棒猫のような視線を担任の移動する方向に向けた。ぼくの真横、教室の中央に来て彼は立ち止まり、乾いた声で**に問いかけた。
 「**、お前志願しないか。」
 陸上競技の選手で、ずばぬけて立派な体と温良な性質をもち、成績では陸士は無理と級友たちもほぼ一致して考えていたにちがいない**が担任の指名をうけたのだ。泣き出したいのをじっとこらえて真赤になったほおに、うぶ毛が一面生えていたのが、いかにも健康そうでまだ幼い感じだったあの時のかれの横顔を、三十年以上たった今も、ぼくは鮮かに思い起こす。いつの間にか**は消えるようにみんなの前から去っていった。

 昭和二十一年の早春、われわれは卒業生初のクラス会を母校の会議室で開いた。卒業してちょうど二年後、敗戦後半年のことである。「戦死したやつはいるのか。」若者らしい無遠慮な、悪意のない誰かの声。
 「**が空中戦で戦死したらしいぞ。」二三、それに同意する声があって、しばらく喧騒がとぎれて、しんとなった。

 数年前、卒業後二十五年の在京者のクラス会が開かれた。二十五年ぶりに会う者もあり、なかなか思い出せない顔も多かった。ぼくは幹事の持っていた初めて見る部厚い山形東高同窓会名簿なるものを手にして、その中に無意識に**の名を探していた。当然のことに彼の名があるはずなかった。四年修了で旧制高校、海兵などにいった比絞的晴れがましい名前の載っている「中途進学者」の欄にも見当たらなかった。航空練習生だから、進学ではないのだろうか、海兵や陸士とどこが違うのだろう。**の名が名簿にないことがひどく不当なことのように思われ、しばらくぼくの胸の奥にしこりとなって消えなかった。

 ……彼が航空兵に指名されたのは昭和十五年から十八年、われわれが山中二年から五年の期間にちがいないが、そのいつの時点であったか、また担任が誰であったかも、どうしても確定できない。が、そんなことはちっとも重要でない。あの時、あの状況におかれたなら、教師の九九・九パーセントまでが同じことをやるだろうことがほぼ確実だからだ。十代後半のわれわれが級友の一人をスケープゴートに捧げたという厳然たる事実だけは消えずに残る。そしてそのことだけがぼくにとって意味がある。戦後のぼくの生きざまを深い所で方向づけ、規定している最も大きな体験のひとつである事実は動かせないから。

 ※昭和21年のクラス会の記述は、『山形東高 校史編纂資料』に収録された渡部氏の原文より引用しました。

 その時、教室に流れた「鉛のような」時間、近づく教師の靴音、「真赤になったほおに、うぶ毛が一面に生えていた」かれの幼い横顔――。「三十年以上たった今も、鮮かに思い起こす」というその光景が、私たちにもありありと見えてくる。

 昭和19年、私の父も志願して陸軍少年飛行兵となった。昼は働きながら夜学に通い、ようやく逓信省の講習所に入ることができ、三陸の港町の郵便局に配属されて間もない時だった。愛国心に駆られ、少年飛行兵に憧れ、父は志願せずにはいられなかったという。合格通知を手に喜び勇んで山形の実家に知らせると、親代わりの兄からこっぴどく叱られた。初めて聞く兄の怒鳴り声だった。
 「逓信省に3年間勤める義務があるのに、何も好き好んで兵隊など行くことはない。」
 就労義務という楯に公然と守られている命、尊い命を、あたら投げ出そうとする弟が、兄は愛しくも、腹立たしくてならなかったのだろう。

 まして「このクラスからただ一人でいいのだ」と懇願され、「泣き出したいのをじっとこらえて」いた少年と、そんなわが子を戦場に送り出さねばならなかった家族の心情は、察するにあまりある。「消えるように」学舎を去っていった姿に、「今日よりは顧みなくて大君の 醜の御楯と出で立つ我は」の歌が悲しく重なる。そして――、その日から仲間を「スケープゴートに捧げた厳然たる事実」を抱えて生きることになった級友たち。
 「スケープゴート」と題するこの文章は、戦時下の隠された事実を語る貴重な証言であり、またそれを抱えて生きた者たちの思いがまざまざと吐露されている。

 青春の傷口を覆う瘡蓋(かさぶた)が、ふっと剥がれる時がある。血がにじみ出し、時間がたって鈍磨していたはず痛みが、突如よみがえる。
 ――心に深く刻まれた痛みは、時に自分の行く手を阻み、時に行く手を照らす。
 この文章は、そんな青春の痛みをさらけだし、突きつけ、私たちの心にも巣食っている痛みを覚醒させる。……だから、なのかもしれない。桜の下を屈託ない笑顔で通り過ぎる生徒達を見ると、思わず声をかけ「御楯の桜の話」をしたくてたまらなくなるのは。
 昭和も遠くなろうとする今、この話を若い世代に語り継いでいくことも、非力な桜守の大きな役目のような気がしてならない。

 ――国を愛し、友を守った「つよくやさしき人」の名は、今、名簿にくっきりと刻まれています。