火鉢

 今日は立春。暦の上では春というけれど、同窓会室の南に向いた窓には視界いっぱいに雪山がそびえている。市街地のどまんなかにもかかわらず、山東のある緑町はなかなか雪が多い。路肩にはゆき場のなくなった雪がうず高く積み重なり、狭い道をいっそう狭くし、深く曲がりくねり轍(わだち)は、車も人も容赦なく足元にすくいをかけてくる。校地内にも除雪のブルドーザーが入り、力ずくで積み上げられた雪山があちこちにできている。同窓会室から見えているのは、その最高峰というわけなのだ。そんな雪の日でも生徒達は短い靴ですたすた歩き回り、滑ってもはしゃいでいられる若さがうらやましい。

 石垣元氏(大正12年・山中第36回卒)が、創立50周年記念誌『共同会雑誌』第66号(昭和9年発行)に雪の日の登校の思い出を綴っている。日知寮と言われた寄宿舎に入っていた石垣氏にとって「中学校生活はイコール寄宿舎生活」であり、一時は「200名を擁する大家族」であったという。

 冬の登校のことを書かう。上級生になると多くカバン等を持たず、裸の本を持つて行つたものである。それも中々(寄宿)舎を出ないで、いよいよ五分前の合図の喇叭(らっぱ)を聞いてから悠々出かける。冬の日など舎から学校まで狭い一本路、それを若(も)し上級生に先立たれたものなら災難だ。上級生を先頭に一続きになる訳だが、学校が今に始まるものを牛の如き歩み方だ。下級生の悲しさ「走れ」とも云へず、止むなくサラト(*「さらど」山形県村山地方の方言・新雪のまっさらな状態をさす)をこいで追越さねばならない。而(しか)も上級生の視線を恐れながら。以上のやうな経験はお互が持合せてゐる筈である。何(いず)れは懐しの思出である。

 日知寮は校地の北西の角に位置し、校庭に面して建っていた。そこから一段と高くなった所に建つ校舎の、めざすは生徒昇降口。木造洋風建築の粋を極めたと言われる校舎にはふつりあいな、あの貧相な生徒昇降口めがけて、慌てつ恐れつ校庭の新雪をこぎわけこぎわけ進む。こうした雪の朝の一本路にまつわる話のあれこれ、たしかに昔の山形では誰しも持合せていたにちがいない。
 私が生徒だった頃、登校ルートは三つあった。南側から入る正門ルートと西側から入る通用門ルートは今と同じだが、千歳公園待合所でバスを降りた私が歩いていたのは、北側から入る第三の校庭ルートだ。山形工業高校の校庭のフェンス中程の扉から侵入させていただいて、控え目に校庭の縁を西進して、北西の角で90度方向転換して南進する。吹雪いた日の校庭は雪野原と化し、消えかかりそうな一本路は寒く、遠かった。校舎と体育館をつなぐ太鼓橋までたどり着いて、屋根の下に抱かれるとほっとしたものだ。

 冬の夜。石垣氏には、寮の食堂のひと時へと誘(いざな)ってくれる忘れられない音がある。

 楽しみなのは冬によくやる肉鍋であつた。食堂に通ずる廊下の口の壁に献立表が出ると一週間も前からその肉鍋の夕が楽しみである。当夕はいつも遅れて食堂に行くことをエラク思つてる上級生も室員を促して火鉢をかゝへて食堂に駆けつける。「肉鍋はかうしてするのだ」と上級生に教はつた。一斉に鍋を焼くんだから湧ましい音を立てる。今もあの音を聞くと日知寮の肉鍋の夕を想起こす。

 肉鍋とはすき焼きのことだろうか。それとも焼き肉のことか。待ちに待った肉鍋の夜、食べ盛りの中学生達が勢ぞろいした食堂では、「争奪戦」に近い光景が繰り広げられたのではないだろうか。鍋を仕切っていたのは上級生のようだが、食べ頃になった肉鍋を前にしても、後輩達は「下級生の悲しさ」と己を戒めて、食欲を抑えることができたかどうか。想像するだけでほほえましい。

 ところで、日知寮でコンロ代わりに重宝されていたという火鉢。平成20年(2008)学校の史料倉庫の整理をした際に、「山形中學校」の校名と漢数字が焼き込まれた火鉢が数多く出てきた。その中の二つ「第二十六号」と「第卅九号」が今、同窓会室の陳列ケースの中に並んでいる。口径20センチ、深さ23センチ程の乳白色をした、筒型の小さな手あぶり火鉢。手作りのせいか形も大きさも不揃いだが、なるほど「かゝへて食堂に駆けつける」にはもってこいだ。
 ――しかし、寮生達にとって火鉢はそれだけではなかった。友とふたり向かい合って小さな火鉢に手をかざし、互いの胸中を語り合う静かな時間も流れていった。

「今別れても又五年後に会おう」と火鉢を囲んで約した友がゐた。その友は今や空(むな)しあの世に行つたと聞いてゐる。五年間育まれた学校と寄宿舎を去つて最早十一年、学友舎友今何処にあるか。

 恒例になりつつある、わが同期の集まり。今年もまた「鳥たたき鍋」に懐かしい顔がそろう。それぞれが第二の人生をゆっくりと歩き始めた今、互いの健闘をたたえる時は過ぎ、互いの健在を確かめつつ囲む鍋もまたいいものだ。