イナゴ

イナゴ

 稲穂の波が黄金色にそよぐ季節。畦を歩くと足元から、カサッ、カサッと音をたてイナゴが飛び立つ。さんざん挑発しておいて、さっと身を交わし、思い思いの放物線を描いて飛んだ葉先で、じっと様子をうかがっている。――「採れる!」気がした。が、腰を低くかがめ息をつめて手を伸ばしたところで、バランスを崩した。あやうく稲穂の波にのまれるところだった。
 捕獲はあきらめた。が、そうなると無性にあの味が恋しくなった。産地直送の店に問い合わせると、入荷は捕獲しだいという返事だったが、すぐに届いた。
 その晩、大鍋をとり出して、イナゴ1キロを醤油、酒、砂糖でじっくり煎りあげた。食べやすいように脚と羽をとったりはしない。第一、かさが減るし、面倒くさい。なにより、胴体だけになったイナゴは見るも無残で、痛い。仕上げにハチミツを数滴。鋭敏な羽と脚を装備したイナゴは、黒光りしてぐっと精悍さを増す。熱々をつまむと、カリカリとして実に香ばしい。娘にも、この味を届けたくなってLINEを送ると、「いや、いい。虫食べたくない。」すげない返信がきた。

 娘に嫌われたイナゴは、翌日、同窓会室で脚光を浴びることになる。来室された同窓生のみなさんのお茶うけに出すと、歓声があがった。
 「中学の時、学校でイナゴ採りがあって、家で袋を縫ってこいって言われるのよね。」
 「そうそう。手拭いを半分に折って、端を縫って袋にして、口のところに竹筒を括りつけてね。」
 うちの娘にはペットボトルに採らせてましたと話すと、「へぇ」と驚きの声があがった。道具ひとつにも隔世の感がある。
 「採った量を一人ずつ張り出されて、順位つけられるんだけど、私は下手くそでいつ もビリ。恥ずかしくてしかたなかった。」(笑)
 イナゴは集められ、校庭や小使いさんの部屋で茹でたのだそうだ。
 「茹でたイナゴは売っていて、生徒も買えましたよ。」
 「それで学校では必要な物を買ったんでしょうねぇ。」
 「私たちが中学校に入ったのは昭和23年。戦後間もなくて、なにしろ食料不足の時代でしたから。」(笑)
 「学校のまわりも、田んぼだらけでね。」
 イナゴはタンパク質とカルシウム豊富、当時は貴重な栄養源だ。それにしても山形の繁華街、香澄町辺りでイナゴ採りができたとは。
 「秋にはどこの中学校もイナゴ採りなんて、今では考えられないでしょ。」
 「授業つぶしても、苦情なんて誰も言わない時代でしたよねぇ。」(笑)
 「量を競うものだから、男子生徒なんか袋の中にカエル入れたりして。」(笑)
 なんだか中学生の時分に戻ったように、みなさんの目が輝いてくる。
 「害虫駆除」「食糧自給」「学校設備充実の奉仕活動」などなど。――イナゴ採りをする目的はあれこれ説明されたのだろうが、生徒たちにとってはなにしろ楽しい学校行事、遊びの時間だったにちがいない。たしかに、イナゴ採りには人を夢中にさせる魅力がある。葉先に止まったイナゴ、その一点に、全身を集中して息をつめて近づく。そーっと手を伸ばし、すばやくつかむ。掌の中にうごめく感触を得た瞬間の喜び。逃がした瞬間の悔しさ。この緊張感、達成感、喪失感の繰り返しがたまらない。

 家に帰って父に話をしてみると、やはり戦時中の国民学校でイナゴ採りがあったという。イナゴ採りと栗拾いのどちらかを選べたそうで、自分の得手不得手に合わせて選べるわけで、それなら余計な劣等感を味わうこともない。イナゴ採りは敏捷な子、栗拾いは根気のある子向きというわけか。
 老いても身軽に農作業をこなす父は、当然イナゴ採りだろうと思った。ところが意外なことに、栗拾いだったという。栗拾いの方が山でのんびりできるし、どうせ学校の物になると思うと、馬鹿らしくて真剣にやる気になれなかったのだという。同窓生のみなさんとは対照的に暗く、やさぐれている。ふだんの父らしからぬ少年時代。
 太平洋戦争末期、父の家では、屈強な体格の長兄が召集された。村の神社の前で壮行会が開かれ、兄弟と母は山道を歩いて駅に向かった。そこで兄は一張羅の背広を脱ぎ、国民服に着替えて、汽車に乗った。それが最後の姿だった。
 音信は途絶え、若い働き手を失った一家は、子供たちも親の手足となり農作業を手伝った。学校でのイナゴ採りや栗拾いに無心になれなかったのも、わかる気がした。

 飛びかうイナゴのむこうに、戦争をはさんだ子供たちのさまざまな心の風景が見えてきた、昭和もすでに91年の秋です。