同窓会賞誕生のいきさつ

 3月3日は第66回卒業式。237人の卒業生が学び舎を巣立ち、無限の可能性を秘めた大空へと飛び立っていきました。山形中学が「千歳園」と呼ばれていた現在地に移転したのは、明治26(1893)年のことです。当時の建物で、今なお変わらぬ清新なたたずまいを見せている正門は、それ以来、幾千幾万の健児を見送ってきました。その正門を背景に、今年も晴れ晴れとした表情で記念写真を撮る卒業生の姿がありました。
 卒業式は伝統にのっとり、卒業証書授与に続いて、学校賞が成績優秀者と生徒会活動等の功績者と皆出席者に、さらに同窓会から特別賞―「中村賞」「木村賞」「山形東高同窓会賞」「山形中学山形東高東京同窓会賞」「山形東高仙台同窓会賞」が授与されます。この5つの特別賞は、それぞれいつ頃から授与されるようになったのでしょうか。調べてみると意外や意外、「山形東高同窓会賞」が昭和40年(1965)で最も遅かったのです。その理由を知るべく過去の同窓会報を紐解いてみると、昭和41(1966)年2月発行の「山中同窓会報(同年11月から山形中学同窓会を山形東高同窓会に改称)」第16号に、当時の同窓会長・古沢久次郎氏の「山中同窓会賞の制定について」と題した一文が見つかりました。

山中同窓会賞の制定について
                        同窓会長 古沢久次郎

 母校の毎年の卒業式では、長い間、最も成績の優秀な数名の卒業生に対し、学校から優等賞が授与される外、中村賞(故中村源吉氏基金より)木村賞(元校長木村芳三郎先生の基金より)並に東京山中同窓会賞、仙台山中同窓会賞を各一名に授与していた。
 一昨年の末頃同窓会の役員総会の席上、東京と仙台の同窓会賞があるのに、本部の同窓会賞が無いのは全くおかしいということになった。その結果新たに同窓会賞を制定することになりつでに如何なる基準で受賞者を選定するかについて話合の結果、学業の成績も一応考慮するが寧ろ生徒会やクラブ活動等の面において生徒及学校側の待望を担つて活躍した卒業生を受賞者に選ぶことにしたのである。これは私始め同窓会の委員一同恐らく母校在学中はガリ勉の点取り虫でなかつた故もあつたためか、所謂青臭い学校秀才は色んな点であまり感服出来ない者もいるという意見が大勢を占めたためである。
 私が山形中学に入学した大正六年(五十年前)当時は、二年から五年までは各学年に三名ずつの特待生(特別待遇生徒)という制度があつた。特待生は成績一番から三番までの者で私の入学から数年前までは授業料免除という文字通り特別待遇であつたということである。特待生は胸に金色の桜の徽章をつけて登校し、皆を羨ましがらせていたものである。しかし私はついに一度も特待生になれず、若い心にひそかに口惜しがつた記憶がある。然しその後私の知る特待生の半数以上は学業半ばにして亡くなつたり、社会に出ても余りパツとしない不遇な立場で終つた人もあり、点取り虫の学校秀才は必ずしもうまく行つていないのである。
 又その反面在学中は成績もあまり上等でなかつた腕白者であるが、友人達から何となく好感を持たれた男が「ホーあの男が」と驚かれながら社会人として素晴らしい活躍をしている人も沢山いるのである。在学中の成績だけで人間の値打は判らない。在学中特待生になつた秀才だと自惚れて努力しなければ当然落伍するはずで、要は社会に出てからの真面目な努力によつて学校秀才でなく社会の特待生になることではなかろうか。
 今回新たに同窓会賞を制定したのもこういう活動的な努力型の生徒を鼓舞激励するのが狙いであると考えていただきたい。

 「在学中の成績だけで人間の値打は判らない」には、バンカラで自由闊達な校風を誇りとした大正期の山形中学に学び、戦中・戦後の激動期を生き抜いてこられた気概が色濃くにじみ出ています。卒業式では「半熟よりも固ゆでの卵に、一升でなく一升五合入る枡になってほしい」とはなむけの言葉を贈り、浪人激励会では「負けることに負けるな」と力づけたという、古沢同窓会長らしい熱い思いが伝わってきます。しかも、世の中は高度経済成長の真っただ中。骨太の人間が求められていたことでしょう。結びの「活動的な努力型の生徒を鼓舞激励するのが狙いであると考えていただきたい。」に至っては、山東生のあるべき姿を指し示し、奮起を促す―これはもう立派な「檄文」です。