掌の名簿

 同窓会事務局の書棚には、歴代の名簿が並んでいます。昭和13(1938)年に同窓会が結成され、昭和15(1940)年には初めての『会員名簿』が発行されたわけですが、それ以前にもすでに何冊かの『卒業生名簿』が発行されていたのです。

 その間のいきさつが、昭和7年版の『卒業生名簿』のあとがきには、次のように記されています。
 大正13(1924)年以来、在校生徒が納付した共同会費で名簿を年1回発行してきたが、費用もわずかなため原稿も不完全なまま部数も限られ、「卒業生各位にも配布致し難く、御希望者多数有之候にも拘はらず、御満足なる方法を講じ兼ね候ひしは、誠に遺憾至極の事に候」という状況であったが、昭和9(1934)年に創立50周年を迎えるにあたって記念事業の一つとして名簿が発行される運びとなり、希望者には「実費金弐拾銭」で配付できるようになったと。

 その頃の名簿を手にすることができた卒業生の一人、石垣元氏(大正12年・山中36回卒)は、創立50周年記念誌『共同会雑誌』第66号(昭和9年発行)に、
 「『今別れても又五年後には会はう』と火鉢を囲んで約した友がゐた。その友は今や空しあの世に行つたと聞いてゐる。五年間育まれた学校と寄宿舎の生活を去つて最早十一年、学友舎友今何処あるか。名簿を繰れば又新な感慨に襲はれる。健在なれば幸、この上とも友の健闘を祈る」
と綴っています。
 通信手段も限られ、名簿も手に入れ難かった昭和の期。掌にすっぽりとおさまってしまう小さな名簿は、山形中学で過ごした友たちにとって、懐かしい青春の日々を思い出すよすがであり、また互いの安否を知りうる貴重な情報手段であったことがうかがえます。

 さて、その頃とは比べものにならないくらい便利になった現代において、名簿はどのような存在なのでしょうか。

 昨秋、新しい名簿を作成していると聞いて、同窓生の曾孫にあたる方が同窓会室を訪ねてこられました。曾祖父は明治の草創期の山形中学に在籍し、昭和53年版の名簿では「年次不明の校友」欄に掲載されていたが、いつの間にか欄がなくなり名前も消えてしまった。新しい名簿には、ぜひ曽祖父の名前を復活させてほしいというお申し出でした。
 早速、手続きをとらせていただくと、肩の荷を下ろしたように満面の笑みを浮かべられました。

 名簿は、一人の人間がたしかにその時代を生きていた「証」であり、家族や子孫にとっては自分の「ルーツをたどる糸口」であることを、目の当たりにした出来事でした。卒業生のみならず、そこを起点としてつながる人々にとってもかけがえのない存在。大正の末から100年になんなんとして編み継がれてきた山東の名簿は、「過去」「現在」「未来」を越えて人と人をつなぐ、まさに校歌の一節「来るをつづけて遠きにいたし」の理念を象徴する存在と言ってよいのではないでしょうか。
 そんな畏れにも似た思いを抱きながら、作成にあたらせていただいた今回の名簿。その重みを両の手で受けとめながら、書棚の右隅におさめました。